長崎・原爆の日 ~ 祖父の被爆体験 ~

8月9日。

80年前のきょう、長崎に原子爆弾が落とされました。

私のふるさとは、その長崎です。

祖父母は被爆者でした。私は いわゆる “ 被爆3世 ” です。

 

被爆者の平均年齢は86歳を超え、今年ついに10万人を下回りました。

「9万人は、存命している」とも捉えられるかもしれませんが、

自身の被爆体験を、自らの言葉で語れる人は もはや 多くはないと言われます。

 

ですから、せめて ここに、私が家族に伝え聞いた被爆体験を書き残します。

私の祖父・福居 謙三( ふくい・けんぞう )と 祖母・樹子( たつこ )です。

祖父は京都の生まれで、1945年当時は旧制長崎医科大学に通う大学生でした。

キャンパスは長崎市の坂本という場所にあり、爆心地からの距離は わずか0.6km。

『 原爆投下時に半径1km以内にいた人は ほとんどが即死した 』といわれています。

あの日も、大学では講義が行われていました。

 

祖父も、その場所に、いるはずでした―――

 

その年の夏、祖父は京都の実家で休暇を過ごし、

大学に戻るため8月5日の早朝に長崎に向けて出発しました。

 

長崎へは列車で移動しました。

空襲を受けた直後で焼け跡になった兵庫県西宮市を通過して姫路に着くと、

軍の命令により、乗っていた列車を軍人に明け渡すことになりました。

乗っていた列車は そのまま西へ。祖父は後発の列車に乗り換えました。

 

翌6日の夕方に広島県の海田市というところまで辿り着きました。

8月6日。広島に原爆が落とされた日です。

姫路で祖父を押し退けて軍人たちが乗り込んだ列車は消息がないといいます。

このときは まだ それが “ 原子爆弾 ” によるものだとは思っていませんでした。

 

8月7日。

朝8時ごろに列車が動き出したものの、広島市街地の直前で停車。

ふるさとの両親に学費を出してもらっている手前、大学の講義に遅れることはできないと焦った祖父は広島市街地を歩いて移動することにしました。

おびただしい数の遺体と廃墟と化した広島の町を見ながら、とにかく足を進めました。

被爆直後にも放射能が残っているなんて想像もせず、夕方まで歩き続けました。

その後 再び列車を乗り継ぎながら長崎を目指し、8月8日の夜9時ごろに到着。

長崎に原爆が落とされる14時間前のことです。

 

8月9日。

当時 祖父は長崎市の八坂町というところで下宿していました。

爆心地からは約3kmの距離があります。

京都から3泊4日の長旅、それも兵庫や広島の惨状の中を抜けてきたこともあって

ひどく疲れていたようで、ぐっすり眠り、朝起きるのが億劫に。

講義に間に合うよう頑張って帰ってきたのに、講義に行く気をなくしてしまったのです。

 

面倒見のいい同級生が、祖父を起こしに部屋まで来てくれました。

「おい!福居!講義に遅れるぞ!」と祖父を布団から引きずり出し、服まで着せてくれたそうですが、祖父は彼の優しさには応じず、そのまま眠りました。

その同級生とは、それが最後だったそうです。

 

長崎医科大学の被害は甚大で “ 大学最大の惨事 ” でした。

記録によりますと、

『 講堂の焼跡から 教授は教壇に、学生は座席についたままの姿で発見された 』

『 受講中の学生 約480人のうち314人が爆死した 』

 

この写真は、長崎医科大学のちかくにある “ 片足鳥居 ” と呼ばれる被爆遺構です。

神社の鳥居の大部分が 原爆による凄まじい爆風で吹き飛ばされ、今の姿になりました。

この “ 片足鳥居 ” でさえ、爆心地からは約0.8kmの距離がありました。

祖父が真面目に講義に出ていれば、きっと助からなかったでしょう。

 

生き残った祖父は救護活動に携わり、その後 産婦人科医になりました。

祖父は、息子である私の父に

「 皆勤するのが良いとは限らない 」

「 気がすすまないなら、サボっていい。一寸先は闇かもしれない 」

・・・などと言っていたそうです。

 

今回 綴った話は、その私の父が、祖父から聞いた話を書き留めていたものです。

  

私自身は祖父母から詳細な被爆体験を直接聞かされたことは 一度もありませんでした。

唯一、記憶に残っているのが、晩年に目を悪くした祖母が小さく呟いた一言です。

『 視界が暗いのは嫌。原爆を思い出すから。 』

普段の祖母は意地が悪いくらいに強気でパワフルな女性だったため、

ふと漏らした言葉と、弱々しい背中を見て とても驚きました。

そして、それ以上の話を聞きだそうと思えませんでした。

 

そんな祖父も、祖母も、父方・母方 含め、みな他界しました。

もう二度と話を聞くことはできません。

 

この夏は夫と息子2人を連れて 長崎原爆死没者追悼平和祈念館を訪れ、

祖父母たちの名前も収められている ≪ 原爆死没者名簿 ≫ の前で祈りを捧げてきました。

 

無理に話を聞いて、心の傷をえぐることは したくなかったけれど、

それでも、互いに辛い思いをするかもしれないけれど、聞いておくべきだったのか――

今になって、いろんな思いが頭の中を巡りました。

 

今回、このようなかたちで祖父の話を綴ろうと思ったのは、

戦後80年の今年、RKKの呼びかけに たくさんの方が応えてくださったことに心を動かされたからです。

 

『 私たちが知らない “ 戦争 ” を教えてください 』

戦後80年。1945-2025|RKK熊本放送

 

実体験をもとにした証言、家族から伝え聞いた記憶・・・

多くのエピソードが寄せられるなか、

「 これまで誰にも話さなかったけれど、伝えなければ 」と意を決して連絡をくださった方もいらっしゃいました。

 

“ 思い出したくなかった ” とか “ 話してはいけない気がしていた ” など

複雑な気持ちを抱えて過ごしていらしたのかもしれないと想像しました。

その上で、今回 私たちの呼びかけに応じてくださったことに感謝が尽きません。

 

私も、家族が経験した “ 戦争 ” そして “ 被爆 ” を伝えなければと思いました。

戦後90年、100年、150年、もっと先の未来まで―――

戦争を体験した たくさんの人々 が 託してくださった 記憶 と 気持ち を、私たちも、つなぎます。

火の国まつり!

今月2日(土)に行われた 火の国まつりの「おてもやん総おどり」

熊本の夏の風物詩ですね。

参加した!見に行った!という方も多いと思います。

 

RKKでは「おてもやん総おどり」の様子をお伝えする特別番組を放送します!

『第48回火の国まつり おてもやん総おどり絵巻』

3連休の最終日・山の日の11日(月)午後4時20分からです!

私も浴衣を着て、参加者のみなさんにインタビューさせてもらいました!

やはり浴衣を着ると、夏を感じられてうれしくなりますね~

亀山さんとそれぞれ選んだ浴衣は、偶然ふたりともアサガオ柄でした♩

 

会場となった通町筋一帯は、総おどりが始まる前から熱気に包まれていました。

始まると、楽しい時間はあっというま。一気に駆け抜けたような感覚でした。

15年ほど前に一度参加したときの記憶も蘇ってきました~!

たくさんの人と交流して、たくさん汗をかいて…素敵な夏の思い出になりました。

 

 

あのサンバのリズムと祭りの高揚感をもう一度!

放送は、今月11日(月)午後4時20分からです。

ぜひご覧ください。

“ 長崎の記憶 ” を 熊本 で 語り継ぐ

この仕事をはじめて14年目になります、福居万里子です。

先日、光栄なことに 自らの “ 仕事 ” について表彰していただきました。

 

【 JRN・JNN アノンシスト賞 】

全国にあるJRN・JNN系列局のアナウンサーを対象に、

ナレーションや実況、フリートークなどの技術を評価するコンテストです。

昨年度の1年間に放送したものの中から優れた作品を部門ごとに表彰します。

 

2024年度 アノンシスト賞 全国審査で

ラジオ「 読み・ナレーション 」部門で最優秀賞をいただきました。

 

心から嬉しく思うとともに、今回の受賞を報告したい方がいました。

熊本市 の 深堀弘泰( ふかほり・ひろやす )さん です。

直接 お目に かかったことは ありません。

2022年に96歳で亡くなりました。

先日、ご遺族のお許しをいただき、御仏前にご挨拶とご報告をしてきました。

 

今回 受賞したのは、去年12月に放送した「 アナぐらむ 」内での朗読でした。

長崎で被爆し、その後 熊本に移り住んだ深堀さんの証言からつくられた

紙芝居『 被爆体験記 長崎原爆救援列車 』を私の声でお届けしました。

日本被団協がノーベル平和賞を受賞したのを機に、

私も長崎出身の被爆3世として、アナウンサーとして、

何かできないかと思い、企画したものでした。

 

原爆救援列車とは当時の国鉄の蒸気機関車で、

被爆直後に原子野と化した長崎市内と病院との間を何往復もし、負傷者を運びました。

ただ、その方々の多くは病院に着くまでの間に息を引き取ったといいます。

 

深堀さんは まさに この列車に乗り込み、救援にあたっていました。

その一方で、当時ご自身の家は爆心地のすぐ近くにあり、家族や親族を亡くしました。

このときの記憶を被爆証言として残し、熊本県被団協が紙芝居にしたのです。

 

( 救援列車の車輪はJR長与駅のロータリーで展示されています )

 

爆心地から3.5キロの場所で経験した恐怖

変わり果てた町や市民の姿を目の当たりにした衝撃

家族を亡くす悲しみ

放射能の影響で苦しみ亡くなっていく人を看取る悔しさ

 

深堀さんの記憶を追体験するような気持ちで読ませていただきましたが、

言葉を口にするだけでも非常につらいものがありました。

 

それでも、深堀さんの「 戸惑い 」や「 恐怖 」そして「 悲しみ 」と「 絶望 」を、

少しでもリスナーのみなさまに感じてもらえるよう、

私のふるさと・長崎の情景とこれまでに私が見聞きした被爆の実相を思い浮かべながら

ひとつひとつの言葉に感情をのせました。

 

感情をのせるために・・・細かい話をしますと、

たとえば “ 読み下す ” とか “ 鼻濁音 ” など、

ナレーションの基本とされる部分を無視して表現したところもありました。

 

それでも今回このようにして審査員のみなさまに認めていただけたこと、

そして何よりリスナーのみなさんや遺族の方々の心に届いたことは、

放送に向き合う自らの姿勢に対し背中を押していただけたような気持ちです。

 

 

( 熊本県被団協のみなさんも受賞を喜んでくださいました )

 

審査の過程で「 講評 」も届くのですが、つぎのような激励をいただきました。

 

“ これからも さらなる戦争体験の継承に 期待する ”

 

いま私たちRKKは戦争体験の募集と掲載、その音声化を進めています。

 

RKK特別サイト『 私たちが知らない 戦争 を教えてください 』

戦後80年。1945-2025|RKK熊本放送

 

被爆体験記を遺してくださった深堀さん や ご遺族、

そして 今回の受賞に恥じぬよう、ひとつひとつ 心を込めて 努めてまいります。

豪雨から5年 ~ 家族で訪ねる人吉・球磨村 ~

我が家は ほぼ毎週 休日は家族で県内各地をドライブします。

人吉・球磨地域に行くことも しばしば で、そのたびに球磨川の美しさに感動!

HASSENBAのテラスでは川下りの船越しに球磨川を眺めることができます。

人吉を象徴する景色で、私は大好きです。

 

一方で、街なかの電柱には過去の水害の記録と教訓が伝えられていて、

“ 忘れないで、球磨川 の もうひとつの顔 ” という言葉に はっとしました。

 

県南で過ごす時間は 純粋に楽しいのは もちろん ですが、

訪れるたびに自然の恐ろしさを思い出しますし、

橋や道路の復旧状況などを見て “ 復興の現在地 ” を知る機会になります。

 

球磨川沿いを走ると、護岸工事などの影響で 何度も う回路に誘導されます。

不便さを感じる一方で、新しい橋梁の工事現場に遭遇すると、

こうしたことも復興への大切なステップなのだと実感します。

 

そして、このブログでは たびたび綴っていますが、

私は鉄道ファンの家系で生まれ育ったので、どうしても肥薩線が気になってしまいます。

 

ねじれるように変形した線路 や 雑草に覆われた踏切。

肥薩線だけは、5年前の “ あの日 ” から、時が止まったまま です。

 

ただ、今回 初めて気づいたことがありました。

 

球磨村にある『 那良口( ならぐち )駅 』は いわゆる “ 無人駅 ” で、

肥薩線の復旧にあたっては 廃駅 になる方針だと伝えられています。

その那良口駅をぼんやりと対岸から眺めていたところ、

駅のホームにプランターがいくつか並んでいて、その中で花が咲いているのが見えました。

現在、那良口駅に列車が来ることはありません。

つまり、利用者もいないはずなんです。

JR九州 熊本支社の話では、

この駅の “ 名誉駅長 ” である女性が、ずっと世話をし続けているのだとか。

 

それを聞いて、胸が詰まりました。

 

被災地には、私が知らない、気づいていない景色と、

それに関わり、守る人たちがいて、たくさんの “ 物語 ” が あるのだと。

 

熊本市内から県南へむかうとき、高速道路を使うことが多くなると思うのですが、

もし時間が許すのなら、球磨川沿いをゆっくりと走ってみてほしいです。

 

( 球磨村・球泉洞で涼しいひと時を過ごすのもオススメ! )

 

それから――

いつもなら日帰りのところを、

豪雨から5年となる今回は、宿を予約して人吉に一泊することに!

“ 夜の空気 ” を感じてみたかったからです。

 

夕食には球磨川水系の支流のひとつ・胸川沿いに立つ店に入りました。

5年前の豪雨では「 球磨川 」がどうしても注目されますが、

実際には その支流こそが先に水があふれるなどして被害が拡大しました。

胸川も濁流となり、当時この店も被災していて、

また、5年前だけでなく それ以前にも川の恐ろしさを経験したそうです。

 

それでも この場所で店をつづける理由は――

直接お話を伺う機会こそありませんでしたが、

窓から見える川の流れや豊かな緑、心地よい鳥や虫の声といった魅力的な空気を感じれば、

理解できるような気がしました。

 

( アユの塩焼き、きじ刺し・・・どれも絶品です )

 

お腹を満たした後は、人吉の中心市街地を散策。

青井阿蘇神社はライトアップされていて、昼間とは違った雰囲気に。

 

JR人吉駅や鍛冶屋町通りでは人吉が舞台の『 夏目友人帳 』の影絵を鑑賞。

 

( 大学生のころから作品のファンなんです・・・! )

これらは【 人吉ひかりの復興プロジェクト 】といって、

光のチカラによって人と人とをつなぎ、人吉の魅力を磨き、

夜間の周遊を促そうというプロジェクトです。

 

夜に訪れた人吉の街は、飲食店がにぎわう声、散歩しながら交わされる会話、

そして 虫の声や川の水の音が交錯し、昼間とは少しちがう雰囲気でした。

 

あれだけ恐ろしいことが起こっても 多くの人が球磨川を憎んだり離れたりしないのは、
この場所での暮らしや文化、歴史が、いつの時代も 球磨川と ともに あったからなのでしょう。

 

人吉に泊まった翌日は、錦町 や あさぎり町、多良木町にも足を伸ばし、

球磨川と、その流域の街、いろんな表情を見ることができました。

 

ペンやカメラを持って “ 取材 ” で訪れるのと、

幼い息子と手をつなぎ ゆっくりと歩くのでは、

見えてくること、感じること、それぞれ違う “ 気づき ” が ありました。

これからも いろんな視点で 県内を見つめつづけようと思った旅でした。

豪雨から5年 ~ 八代市・坂本町での取材 ~

県南部を中心に甚大な被害がでた『 令和2年7月豪雨 』から5年が経ちました。

ことしの『 7月4日 』は、八代市 坂本町で過ごしました。

行き帰りの道中では、何台もの災害復旧車両や重機などとすれ違いました。

 

5年経ちましたが、復旧・復興は まだまだ です。

 

私には、坂本町に “ 会いたい人たち ” が いました。

 

大塚 松美さん と 前坂 通さん。

ふたりは、地元のみなさんでつくる店【 食処 さかもと 鮎やな 】のメンバーです。

球磨川でとれた鮎を使い、町の女性たちが腕をふるってつくる料理が人気でした。

 

店は豪雨で被災しましたが、道の駅のそばにつくられた復興商店街で復活。

私は2022年の夏に取材で訪れ、塩焼き に 唐揚げ、甘露煮・・・

 

それは もう お腹いっぱい に していただきました。

接客する みなさんの笑顔は輝いていて、

でも、テレビカメラを向けると 恥ずかしがって控えめになって・・・

そんな親しみやすい雰囲気に、たちまちファンになりました。

 

しかし、店周辺の かさ上げ が必要になり、ことし2月に再び休業に。

それからは 熊本市の商業施設で出張販売をするなど、

休みの間も 町の “ 元気印 ” として坂本町をアピールしたいと意気込んでいます。

 

この日 現場を訪れると、すでに更地になっていて、重機の音だけが響いていました。

店は、2年後の夏に再開することが決まっています。

しかし、その “ 2年 ” は、鮎やな の みなさんにとって決して短くありません。

店はシニア世代が中心となって立ち上げたもので、ほとんどが今では70歳以上です。

この2年の間に、体調面や暮らしなど・・・不安が多いといいます。

「 また みんなで、笑顔で会いたい 」

出張販売でお会いしたときには弾ける笑顔を見せてくださっていましたが、

更地になった場所と球磨川を見つめながら話す おふたりの顔には、いろんな感情が伺えました。

 

もうひとり 会いたい人がいました。

球磨川沿いで【 球磨川温泉 鶴之湯旅館 】を営む 土山 大典さん です。

旅館の佇まい や 窓から望む球磨川の景色は 本当に素晴らしく、ファンが多くいます。

 

 

鶴之湯旅館も、豪雨で被災し 一度は営業再開したのですが、

鮎やな と同じように かさ上げ が必要になり、休業中。

もともとは 豪雨から5年となる まさに この日に再開するはずでしたが、

昔ながらの構造を維持しながらの工事は予想以上に難しく、叶いませんでした。

ことしの秋には 必ず再開させたい! と意気込む土山さん。

再開を信じて すでに入っているという “ 宿泊予約 ” が背中を押します。

 

鮎やな の みなさん も、土山さん も、共通しているのは

『 待ってくれている人が いるから、頑張れる 』ということです。

私たちの取材クルーに対しても『 来てくれて うれしい 』と歓迎してくださいました。

その言葉・気持ちに報いるためにも、

私は これからも 坂本町をはじめとする さまざまな場所を取材し、伝え続けます。

 

そして――

“ 取材 ” ではなく、家族で旅する中でも 『 被災地 の “ 今 ”  』が見えてきました。

つぎの投稿で綴ります。

ゲツキンデビュー!

こんにちは!

RKK新人アナウンサーの丸山丈瑠です🔥

 

入社して早3か月がたち、ニュースからスポーツ取材までいろんな業務に取り組んでいます。

最近、特に印象に残っているのはゲツキンのスポーツキャスターデビュー!

この日は自分が取材した高校野球の特集もあって非常にバタバタした一日でしたが

オンエアが終わるまでは一瞬だったのであまり記憶がありません🤷‍♂️

しかし、ロアッソがなかなか勝ち切れない中の締めコメントで「欲しい一勝が欲しいところです!!」と勝利に貪欲すぎるコメントをしてしまったのだけは覚えています…笑

 

外の取材も増えてきて毎日汗だらだらなのですが、そんなときには…

日本が誇る素晴らしい文化、”温泉”ですよね♨️

私は主な移動手段がチャリチャリなのですが、奇跡的に車を持っている友人が近くにいるので

彼と県内の温泉を巡るのが最近のブームです!

お風呂上がりのらくのうマザーズが最高なんですよね~~~🥛

全種類飲みましたが、僕は王道のいちごミルクが一番大好きです!

 

今年は、県内の北から南まで広い範囲を湯巡りします🚗

『 人生は よろこばせごっこ 』

熊本市現代美術館の「 やなせたかし展 」が、ついに閉幕しました。

なんと・・・会期中には5万7千人を超えるお客さまが来てくださいました!

ありがとうございました!!!

やなせさんの言葉を時間をかけて読みこむ人

弟への想い や 平和への願いに触れ、涙する人

原画の美しさを目に焼き付けようと作品の前に佇む人

そして、絵本を手にとって 子どもに読み聞かせる人・・・

 

本当に、世代を問わず愛された展覧会でした。

 

やなせさんの人柄は、会場でみなさんが感じられた通りです。

それだけに、関連イベントでも やなせさんの優しさが伝染したような、

温かい空気に包まれることが本当に多かったです。

( 朗読会に来てくださった みなさま と )

 

そして、イベントやコンサート、ラジオの特別番組など

何度も朗読させていただいた 絵本『 やさしいライオン 』。

この作品は、私の生涯における “ 宝物 ” になりました。

開幕前は表紙を見ただけで物語を思い出し涙ぐんでしまって・・・

泣かずに読み遂げられるだろうかと不安でしたが、

何度も何度も練習して、何度もみなさんに聴いていただけたことで

せつない物語に ただただ涙するのでなく、

やなせさんが伝えたかったという “ 愛と勇気 ” を感じながら

温かい気持ちで作品に向き合えるようになっていました。

( 物語の世界観を音楽で表現してくださった 正源司さん・兼武さん )

 

アンバサダー活動を通じ、会場にいらした たくさんのみなさまと

素敵な時間を共有できたことを、心から幸せに思います。

( いっしょに広報活動をした(?)息子たち! )

 

やなせさんが遺した作品や言葉は、私たちの心に生き続けます。

みなさまとやなせさんの熊本での “ 出会い ” が、

この先ずっと みなさまの心を温かく照らしつづけますように。

“ ひとは ひとを よろこばせることが いちばん うれしい ”

“ 人生は よろこばせごっこ だよ ”

ご来場ありがとうございました!

あと4日です!ぜひ~

熊本市現代美術館で開催中の「やなせたかし展」

行ってきました~!

<会場入り口の”やなせうさぎ”と♩>

 

私のなかで「アンパンマン」のイメージが強かったやなせたかしさんの そのほかの作品や活動に触れて、

「人を喜ばせること」が大好きなやなせさんの人生を覗かせてもらった気分でした。

平日の昼間に行きましたが、幅広い年代の方がいらしていて、

やなせさんの考え方や生き方は、老若男女問わず多くの人に”刺さる”のだろうなと感じました。

 

もちろん!アンパンマン好きにはたまらない展示もたっぷりありましたよ~

 

今までなかなかお話しする機会がなかったのですが、実は私アンパンマンが大好きなんです。

こちらは、大学時代に自宅で撮影した写真ですが、

ぬいぐるみだけでもこれだけの数を持っていました。

(なぜ集めて囲まれて写真を撮ったのかは覚えていません。)

このほか、文房具やタオル、食器、Tシャツなどありとあらゆるアンパンマングッズに囲まれて生活していました。

 

さらに、横浜や福岡などにあるアンパンマンミュージアムには何度訪れたかわからないほど…

特に好きなのは、「コキンちゃん」というキャラクター。

みなさんご存じのドキンちゃん の妹分で、嘘泣きが得意というなんとも可愛らしい設定です。

こちらは、アンパンマンミュージアムで作ったオリジナルキーホルダー。

お気に入りです。

アンパンマンミュージアムで作ったオリジナルトートバッグ。

好きなワッペンを選んで、貼り付けてもらえるんです!

 

なぜこんなにアンパンマンが好きなのかというと、可愛いからです。見た目が好きです。

アンパンマンに登場するキャラクターたちを見ると、愛おしく感じます。

 

ただ私は、これまでアンパンマンたちの見た目が好きなだけで、あまりストーリーなどは知りませんでした。

今回『やなせたかし展』で、アンパンマンの誕生のきっかけ、

それぞれのキャラクターの誕生秘話を知ることができて、とてもうれしかったです。

もっとアンパンマンが好きになりました。

 

会場にはグッズも!私はファイルとステッカーを買いました。

可愛い袋に入れてくれるのも、うれしいポイントです。

 

アンパンマンに詳しい人も、そうでない人も楽しめるはず!

『やなせたかし展 人生はよろこばせごっこ』は

6月30日(月)まで熊本市現代美術館で開催中です!

7月豪雨から5年

2020年7月豪雨からまもなく5年です。

RKKでは、あす6月25日(水)午後8時から特別番組を放送します。

『教訓から描く未来 ~2020年7月豪雨から5年~ 』

NEWSゲツキン アンカーの青谷さん、気象予報士・気象防災アドバイザーの坂本アナウンサーとお伝えします。

 

今回私は、豪雨で母と叔母を亡くした女性を取材させてもらいました。

平野みきさんです。

笑顔が素敵で、気さくで、明るい方でした。

母・川口豊美さんの意志を継いで再開したい店のこと、

JR肥薩線や球磨川とともに歩んできた人生のこと、

当時の心境や5年間の思いなど、たくさんお話ししてくださいました。

本当にありがとうございます。

 

そして、豪雨で浸水被害にあい、仮設商店街で営業を続けた串焼き店も取材させてもらいました。

山下さん夫婦で営む「串焼き 山久」です。

2年前に店舗を再建し、今では毎日満席という賑わいぶりです!

 

実は、豪雨から半年後、仮設商店街に一度取材でお邪魔していました。

4年半ぶりに山下さん夫婦にお会いできて、おふたりやお客さんの笑顔がたくさん見られて、本当にうれしかったです。

取材を受けてくださり、感謝の気持ちでいっぱいです。

こちらは7月に入ってからの『NEWSゲツキン』で放送予定です。

 

 

このほかにも、

当時避難の行く手を阻んだ”内水氾濫”についてや

現地から復旧・復興状況を伝える中継をまじえてお送りする

『教訓から描く未来 ~2020年7月豪雨から5年~ 』

 

当時の教訓を未来につなぐため、

大雨への備え、そして復興を考える1時間を一緒に過ごしていただきたいです。

あす夜8時からです。

開幕!やなせたかし展

熊本市現代美術館に出現した、可愛くて大きな垂れ幕!

やなせたかし展 人生はよろこばせごっこ 熊本展!

ついに!はじまりました~!

 

会場入り口では “ やなせうさぎ ” が お出迎え♪

人を おもてなし することが大好きだった やなせさん らしく、

タキシード姿で、ちょっと気取ったポーズのいで立ちです。

会場内の資料はカメラ撮影できないものが多いのですが、

この入り口付近は撮影OK!

いろんなポーズで記念写真を残してくださいね☆

( チケットの半券も めちゃくちゃ可愛くて・・・!自宅に飾っています )

 

開幕直前には「 NEWSゲツキン 」で展覧会の見どころを少しだけ お見せしました。

【 RKK NEWS DIG 】では 動画で ご覧いただけます♪

やなせたかし展 26日開幕! 熊本市現代美術館で6月30日まで | TBS NEWS DIG (1ページ)

 

きっと、訪れるたびに新たな発見があるはず――

何度でも遊びに来てくださいね◎

 

【 やなせたかし展 人生はよろこばせごっこ 熊本展 】

4月26日(土)~6月30日(月)/熊本市現代美術館

やなせたかし展 – 開催概要

 

今後も ブログ や instagram で、展示内容 や 関連イベント・グッズ などを 紹介します♪