8月9日。
80年前のきょう、長崎に原子爆弾が落とされました。
私のふるさとは、その長崎です。
祖父母は被爆者でした。私は いわゆる “ 被爆3世 ” です。
被爆者の平均年齢は86歳を超え、今年ついに10万人を下回りました。
「9万人は、存命している」とも捉えられるかもしれませんが、
自身の被爆体験を、自らの言葉で語れる人は もはや 多くはないと言われます。
ですから、せめて ここに、私が家族に伝え聞いた被爆体験を書き残します。
私の祖父・福居 謙三( ふくい・けんぞう )と 祖母・樹子( たつこ )です。
祖父は京都の生まれで、1945年当時は旧制長崎医科大学に通う大学生でした。
キャンパスは長崎市の坂本という場所にあり、爆心地からの距離は わずか0.6km。
『 原爆投下時に半径1km以内にいた人は ほとんどが即死した 』といわれています。
あの日も、大学では講義が行われていました。
祖父も、その場所に、いるはずでした―――
その年の夏、祖父は京都の実家で休暇を過ごし、
大学に戻るため8月5日の早朝に長崎に向けて出発しました。
長崎へは列車で移動しました。
空襲を受けた直後で焼け跡になった兵庫県西宮市を通過して姫路に着くと、
軍の命令により、乗っていた列車を軍人に明け渡すことになりました。
乗っていた列車は そのまま西へ。祖父は後発の列車に乗り換えました。
翌6日の夕方に広島県の海田市というところまで辿り着きました。
8月6日。広島に原爆が落とされた日です。
姫路で祖父を押し退けて軍人たちが乗り込んだ列車は消息がないといいます。
このときは まだ それが “ 原子爆弾 ” によるものだとは思っていませんでした。
8月7日。
朝8時ごろに列車が動き出したものの、広島市街地の直前で停車。
ふるさとの両親に学費を出してもらっている手前、大学の講義に遅れることはできないと焦った祖父は広島市街地を歩いて移動することにしました。
おびただしい数の遺体と廃墟と化した広島の町を見ながら、とにかく足を進めました。
被爆直後にも放射能が残っているなんて想像もせず、夕方まで歩き続けました。
その後 再び列車を乗り継ぎながら長崎を目指し、8月8日の夜9時ごろに到着。
長崎に原爆が落とされる14時間前のことです。
8月9日。
当時 祖父は長崎市の八坂町というところで下宿していました。
爆心地からは約3kmの距離があります。
京都から3泊4日の長旅、それも兵庫や広島の惨状の中を抜けてきたこともあって
ひどく疲れていたようで、ぐっすり眠り、朝起きるのが億劫に。
講義に間に合うよう頑張って帰ってきたのに、講義に行く気をなくしてしまったのです。
面倒見のいい同級生が、祖父を起こしに部屋まで来てくれました。
「おい!福居!講義に遅れるぞ!」と祖父を布団から引きずり出し、服まで着せてくれたそうですが、祖父は彼の優しさには応じず、そのまま眠りました。
その同級生とは、それが最後だったそうです。
長崎医科大学の被害は甚大で “ 大学最大の惨事 ” でした。
記録によりますと、
『 講堂の焼跡から 教授は教壇に、学生は座席についたままの姿で発見された 』
『 受講中の学生 約480人のうち314人が爆死した 』
この写真は、長崎医科大学のちかくにある “ 片足鳥居 ” と呼ばれる被爆遺構です。
神社の鳥居の大部分が 原爆による凄まじい爆風で吹き飛ばされ、今の姿になりました。
この “ 片足鳥居 ” でさえ、爆心地からは約0.8kmの距離がありました。
祖父が真面目に講義に出ていれば、きっと助からなかったでしょう。
生き残った祖父は救護活動に携わり、その後 産婦人科医になりました。
祖父は、息子である私の父に
「 皆勤するのが良いとは限らない 」
「 気がすすまないなら、サボっていい。一寸先は闇かもしれない 」
・・・などと言っていたそうです。
今回 綴った話は、その私の父が、祖父から聞いた話を書き留めていたものです。
私自身は祖父母から詳細な被爆体験を直接聞かされたことは 一度もありませんでした。
唯一、記憶に残っているのが、晩年に目を悪くした祖母が小さく呟いた一言です。
『 視界が暗いのは嫌。原爆を思い出すから。 』
普段の祖母は意地が悪いくらいに強気でパワフルな女性だったため、
ふと漏らした言葉と、弱々しい背中を見て とても驚きました。
そして、それ以上の話を聞きだそうと思えませんでした。
そんな祖父も、祖母も、父方・母方 含め、みな他界しました。
もう二度と話を聞くことはできません。
この夏は夫と息子2人を連れて 長崎原爆死没者追悼平和祈念館を訪れ、
祖父母たちの名前も収められている ≪ 原爆死没者名簿 ≫ の前で祈りを捧げてきました。
無理に話を聞いて、心の傷をえぐることは したくなかったけれど、
それでも、互いに辛い思いをするかもしれないけれど、聞いておくべきだったのか――
今になって、いろんな思いが頭の中を巡りました。
今回、このようなかたちで祖父の話を綴ろうと思ったのは、
戦後80年の今年、RKKの呼びかけに たくさんの方が応えてくださったことに心を動かされたからです。
『 私たちが知らない “ 戦争 ” を教えてください 』
実体験をもとにした証言、家族から伝え聞いた記憶・・・
多くのエピソードが寄せられるなか、
「 これまで誰にも話さなかったけれど、伝えなければ 」と意を決して連絡をくださった方もいらっしゃいました。
“ 思い出したくなかった ” とか “ 話してはいけない気がしていた ” など
複雑な気持ちを抱えて過ごしていらしたのかもしれないと想像しました。
その上で、今回 私たちの呼びかけに応じてくださったことに感謝が尽きません。
私も、家族が経験した “ 戦争 ” そして “ 被爆 ” を伝えなければと思いました。
戦後90年、100年、150年、もっと先の未来まで―――
戦争を体験した たくさんの人々 が 託してくださった 記憶 と 気持ち を、私たちも、つなぎます。